生温い、長く留まった夏の残り香がそこだけに在った。その強い風は、葵の身体を撫でて尚止まない。
 己の周囲では絶え間無く風が生まれ、そして吹き抜けて去っていく。止められない。これは夢だというのに。
 九尾葵つづらおあおいは今、高層ビルの屋上に居る。
 葵の持つ記憶の最後、窓の外は夜に染まっていた。退勤して、帰路につく。冬の乾いた風を受け、誰も待っていない部屋へと戻る。葵の日常は、その繰り返しである。
 途中で公園のブランコが、葵を招いている気がした。しかし夜が染みた寒空の下、彼等と戯れる気分にはなれずにいた。大人とは、随分とつまらない。だがつまらない大人であるのは、九尾葵ただひとりの可能性は高い。何時から素直な心が潰れてしまったのだろうか。
 その間。どうにかマンションに辿り着いて。ドアを開錠、振り向いて施錠。オートロックを信用し過ぎてはならない。
 日常生活をこなし、疲弊した身体をベッドへ横たえて――気付いたら黄昏時、葵は知らぬ屋上に居た。
 左手首を見遣る。腕時計の長針は十二を指している。が、それは急に七まで移動し、突然九を指して止まった。短針も、秒針も同様。
 此処から逃げ出そうとしても無駄だ。これは夢なのだ。九番目の夢。ゆえに、退路が無い。
 同時に、誰かが命を投げ出せば終わる夢だとも、葵は知っていた。此処はそういう摂理で成り立っているのだ。葵にこの世界の理屈は分からず、現状の説明も碌に出来ない。だが、そういう場所なのだと、何故か思考回路に刻み込まれていた。
 これに歯向かう者は、即ち愚者である。

「――……ああ」

 声。
 微か掠れた、強風に掻き消されてもおかしくはないそれを、葵は聞き逃さなかった。たったひとつ、葵にとっての現実。その気配に過敏に反応した迄である。
 葵と向かい合わせ、百センチ先。高校生時分の己に、瓜二つの少年が立ち竦んでいた。彼がこの夢の証人であり、主人公であった。
 彼の存在に気付かなかったのではない。彼が今、登場したのだ。異質なまでに白い空間を割りながら、此処に降り立ったのだろう。階段を下りる時のように、自然な動作で。先に居座っていた葵に気付いて、これは夢だと彼も理解したのであろう。
 整った顔立ち、色白の肌に艶のある黒髪。雫落つほど熟れた苺色の目を、眼鏡のレンズが遮っていた。彼は葵と視線を交えると、すぐにそれを外して俯いた。三秒。再び顔を上げた少年は、葵には想像も出来ない大切な何かを喪ったのだと、訴えようとしていた。
 それも出来なくなった彼は、葵を見つめて唇を薄く開いた。痛みを訴えたとて、この大人は何も助けてはくれない。
 葵は痛感した。吐き気がする程に己が無力である事を。

「貴方は、僕ですね。そして僕は、何処かの貴方なんでしょう」

 成長途中である事を感じさせる男声。朝露を抱いた花弁の感触に似ている。そんな風に柔く壊れそうな、空に舞って弾けるしゃぼん玉のような声だった。彼は、嗚呼、そうか。

「そうだね。僕は君で、君は僕だ。こんな事になるとは、思っていなかった僕だ」

 確信に返答。事実の確認。僅かな後悔に、滲む現実の色。刹那、此処は夢であると葵は忘却しそうになった。

「ようこそ、どうしようもない世界へ」

 柔らかで、脆い印象を受ける微笑み。引き戻される。これは葵にとって夢で、彼にとってはどうしようもなく現実だった。
 彼はきっと、この場所で終わろうとしている。葵にはそれが解った。葵以外、他に誰が理解してやれるだろうか。
 それまでの間に葵は、彼と会話が出来る。それが許されている。葵にはその権利がある。何故かは解らない。たった僅かな時間だけ。この夢が覚めるまで。
 この夢が覚める時は、彼が居なくなってしまう時だ。

「何時までも……ずっと。終わりが無くて、苦しいんです」

 黄昏に自嘲。彼は両手を、胸の前で軽く握り込んだ。祈りは無意味だと知っている彼は、指を組む事はしない。
 葵は空を見上げる。宵の青を連れ、夜の裾が広がっていく。夕暮れが終わるまで、まだ、少しだけ。

「それは、人生のようなものなのだろうか」
「いいえ。人生は、何時か終わるでしょう。終わってしまうでしょう。終わらせる事も出来るでしょう。でも僕は、……」

 終われない。何時までも、終わる事が出来ない。
 他人の命を終わらせてきたばかりなのに、自分が終わると思うと、怖くて怖くて堪らない。
 彼はそう呟いて目を閉じる。そうして深く、深く嘆息した。

「だから僕はこの夢の中で、僕を終わらせてみようと思うんです。どうなるのか、まだ、きっとあのひとも知らないから」

 成程。彼は葵に、目撃者になれと言っている。謂わばこれは、脅しにも成り得ている可能性さえある。
 この屋上に手摺は無い。落ちたらと思うと恐ろしくなり、葵は黙りこくる。静かな夢の中。風はもう止んでいた。
 葵は彼に遺言を渡すつもりで、そっと口を開いた。

「僕たちは、きっと終わるなと言われている。罪を抱えて、生きなければならない」
「そう、ですね。……ああ、きっと、そうだろうなあ」

 彼の頬を、涙の粒が転がる。何年ぶりだろう、泣くなんて。

「おやすみ、葵くん」

 名前は、呪いである。返答は無い。それで良かった。彼の声は、葵にはもう聞こえない。彼も、きっとそうだろう。
 傾く身体。ゆっくりと、まだ幾分か大人に遠いその肢体。後悔を感じさせない速度だった。彼の落ちた跡を、葵は見る事さえ叶わない。白い手が、葵の両目を上から覆ったからだ。
 お前は、お前が。どうしてお前が選ばれたのだ、何故。
 嫉妬が聞こえる掌に、葵は思わず笑み、呟いた。

「ざまあみろ、父さん」

 胸がすくような思い。落書きをした答案用紙を親に見せた時のような。
 痛みも無く、ぶつりと葵の意識は途絶えた。次に彼に会うなら、夜明けが良い。きっと、それは叶わないけれど。
 

 
 薄暗い室内、見知った天井。首と視線をベッドサイドに巡らす。時計が、朝の五時半を少し過ぎた刻限だと示している。
 頭が痛い。水分が足りない。身動ぎをする。耳元で布地が擦れてごそごそと音を立てた。ベッドに横たえた身体が軋む。筋肉痛のようだ。昨日、珍しく徒歩出勤をしたからだろうか。今が現実だ。これは夢ではない。今は朝だ。黄昏ではない。

「……。……?」

 夕暮れの夢を見た気がする。どうしても手を伸ばしたくて、しかし出来なかった。あれは彼の信念に則って為された行動なのだ。邪魔をしてはならない。それを葵は理解していた。だから、彼のように手を握り込んで。
 彼。
 彼とは誰だろう。誰、だっただろうか。
 泣いていた。微笑んでいた。秘密を共有したのに、共犯にはなれなかった。それが今更、切れた蜘蛛の糸の如く、心の内に幾筋も這ってかなしくて仕方ない。
 彼と共に経験したのだろうに。葵には何ひとつ、憶えが無い。
 ひとつ、溜息を吐く。深呼吸にも似ている。吸った息を、ゆっくりと吐いて。起き上がり、ひとつ伸びをする。朝だから、起きねばならない。起きて、日常をこなさなければならない。
 きっと彼も、それがいいと、微笑んでくれるような気がした。