しずかくんはいいなぁ」

 それは、どうしようもない妬みの言葉であった。
 つまり、羨望の眼差しを向けている事への肯定だった。
 見上げれば寒空、視線を落とせば吐息が薄ら白く凍る。そんな中で涼は、公園のベンチに座り込み、両手で顔を覆い、冬特有の重たい風に吹かれ微かに身体を震わせていた。今のような時期だ。せめてコートを羽織るくらいしてくれば良いのに。昼休憩だけと思い侮り、小鳥の如く身軽に外に出てしまう。目先の日向がどんなに冷えているか、知っているだろうに。
 千実かずさねが近くに佇んでいた自販機で缶コーヒーを買い、自分の側に置いたのも、りょうは知っている。しかし彼女は一瞥もくれない。己の中に閉じ籠って、引きこもって。己が作り出した氷に態と喰われて、何も見えないと愚図る。涼は、魔法をかけられる事を遠く望んでいるお姫様だった。

「静くんは、いいなぁ……」
「あのさ、涼姉」

 万波まんなみ涼は人の話を聞けないと知っていながら、それでも千実は声をかける。
 静と、章子しょうこと、千実。幼い頃からこの三人を見て、世話を焼いてくれていたのが万波涼だった。千実は大人に少し近付いた今、出来る事なら恩返しをしたくて。それなのに、彼女は悲劇の氷室に閉じ籠ってしまっていた。
 何故そんなことになったのか。それは万波涼が、恋を知ったからだ。かなどめ静も、五百蔵いおろい章子も知らない人魚の声を、化田けた千実だけは知っていた。

「章子ちゃんは、言わないと気付かないよ」
「言ったら、嫌われる。私は静くんじゃないから」

 漸く顔を上げた涼は、目を僅かに赤くして、小さく呟いた。
 そもそもこの四人が帯刀課に就職した理由は、静が尋常ならざる程、赤い眼の化物に魅せられてしまったからだ。静は赤い眼を追い、章子は赤と黒に取り憑かれた静を追った。追ってしまった。今思えば二人は、離れてしまえば良かったとしか思えない。それなのに。

「例えば涼姉が静だったなら、章子ちゃんは涼姉を見たんだろうね」

 まだ熱い缶コーヒーを涼の手にこつん、と軽くぶつける。涼はそこでやっと、その温もりに手を伸ばした。しかし手が悴んでしまったのだろう、涼はそれを上手く開栓出来ずにいた。千実は缶の底を拾い上げ、涼の手からコーヒーを奪い取る。かしゅ。コーヒーの香りが鼻を擽り、去っていく。栓を開けた缶を涼の手に戻すと、彼女は小さく有難うと零した。

「涼姉は夢ばっか見とる。そやけど、お姫様はこんな風に奪い取るもんやない。それを知っとるから、身動きとれんくなっとるんや」

 千実が、仕事では使わない言葉遣いをした。これは何処の訛りだったか、教えてもらっても、何時も忘れてしまう。涼が、ひくりと肩を揺らした。只の他人の狭間を、冷たい風が吹き抜ける。他人でしかない。千実は何時も、その距離で涼を宥めてきた。

「千実は、好きな人居ないの」
「今のところはいないかなあ」

 だからこそ他人の距離感を保ち、突き放す事が出来ている。千実は涼に共感をするつもりもなければ、章子に協力するつもりもない。ましてや静と、彼の気に入っている子の間に割り込むなんて、真っ平御免だ。
 千実は自分の為に買った缶コーヒーの蓋を開ける。隣では、涼が缶を握り締めながら、また俯いていた。

「どうして、かなあ」
「どうしてだろうね」

 何に対しての質問か。問う事もせずに、千実はコーヒーを一口飲み下す。ただ熱い液体が喉を通り過ぎていっただけで、味はろくに分からなかった。一気に熱くなった口内を冷やしたくて、ふ、と吐息を漏らす。先程よりも濃く染まった白い呼気が広がって、掻き消えた。顎を上げて、顔を上げて、そうして空を見遣ればとても笑顔とは言い難い色をして、鈍く重たそうな雲が広がっていた。

「僕が好きになる人はきっと、とても不幸だよ」
「どうして」
「どうしてだろうね。だけど、そう思うんだよ」

 そろそろ昼休憩が終わる。千実はまだ熱い液体をぐいと飲み干して、盛大な溜め息を吐く。
 彼女達が声を上げない限り。人魚で居る限り。その恋は実らないのだろう。